2010年



ーーー12/7ーーー CADで製図 


 最近になって、CAD(パソコンを使った製図システム)を使うようになった。何でいまさら、という感じもするが、「作業改善は突然に」といったところか。

 従来は、ドラフターを使っていた。当初は、A0のドラフターで、全ての図面を描いていた。昨年から、A3の平行定規盤を導入し、A3サイズ以下の図面は、これを使って描くようになった。A0のドラフターは、椅子の図面を原寸大で描くときだけの出番となった。

 私は元々技術畑の人間だから、図面を描いたり読んだりすることには慣れている。同業者の中には、図面を描かずに製作をしている人もいるが、私は技術屋の性で、図面が無いと落ち着かない。フリーハンドのポンチ絵でも、描けば安心して加工に入れる。一々図面を描いていては面倒だと言う人もいるかも知れないが、キッチリと決めずに加工に入り、後でやり直しをするくらいなら、図面を描いた方が却って早いと思う。

 それでも、お客様に提出する見積り図面は、スラスラとは描けないものだ。自分が見て分かれば良いという作業図面とは違って、お客様に見せる図面は、それなりの見栄えを求められる。実際お客様がどう感じているかは分からないが、自分としてはそういう気持ちがある。見栄えという点では、例えば縮尺なども、結構大きな意味を持つ。

 手書きの場合は、1/10とか、1/5などの縮尺を使ってきた。寸法の計算がラクだからである。1/3とか、1/7などの縮尺は、計算が面倒で、とても扱えない。縮尺定規を使うという手もあろうが、道具立てを変えなければならないので、毎日設計ばかりやっている専門家ならいざ知らず、たまに描く程度の私には馴染めない。

 CADであれば、縮尺は自由自在だから、用紙のサイズに合った大きさの絵を描くことができる。そんな事が、意外に有り難いメリットだったりする。 

 導入したのは、フリーソフトのJW_CAD。主に建築設計用に開発されたもので、機能的にたいへん行き届いており、使っているユーザーは膨大な数に昇るそうである。何故そんなに優れたソフトがフリーで提供されているのか、疑問ですらある。

 さて、そのソフトをダウンロードして、試してみた。そうしたら、チンプンカンプンで、にっちもさっちも行かなかった。

 ところが、さすがに世に知れた人気ソフトだけあって、ネットで調べれば、様々な問答集があった。それらの問答集をつぶさに調べれば、おそらくそれだけで使い方がマスターできるだろう。しかし私には、それほどの時間的余裕が無いので、これもネットで調べた、参考書を購入した。

 チンプンカンプンだったソフトも、参考書の順序立てた説明を読めば、理解の速度は数十倍である。ほんの入門書を読んだだけで、大層な事を述べるのは恐縮だが、これはまことに良くできたソフトだと感じた。とにかく、便利である。

 パソコン上で図面を描くための、様々な機能の便利さは、過去に経験したことが無いほどの優れもの。その上、データの書き換えだけで処理するパソコンの本質的な部分として、訂正と複写がいとも簡単に実行できる。これの優位は、なんとも言いようがないくらいだ。

 以前、知り合いの工務店のエンジニアが、お客によっては間取り図を50回近く書き換えることがあると言っていたが、それもCADを使っていたからできる事だったろう。代案をより多く提示できるということは、お客の気持ちを掴むのに有利である。とはいえ、手描きでそんな数の訂正をやっていたら、見積もり設計の費用だけで、工務店は傾いてしまっただろう。

 私が描く家具の図面など、建築図面と比べれば、線の数もパーツも少なく、極めて単純素朴なものである。それでも、別の図面を修正したり、一部を複製したりして使えることは、とても能率が良い。作業に要する時間の差は、実際にはわずかかも知れないが、ささいな事が動機になって、仕事が前に進むのは嬉しいことだ。

 図面の見栄えという点でも、妥当なものが描けると思う。人によっては、手描きの方が味があって良いと感じるかも知れないが、私の場合、図面は最終的な作品ではないから、そこまで気にする必要も無いだろう。見積書の文面をパソコンのワープロ機能で書いているのと同じである。むしろ見やすいという点で勝っているし、寸法も正確だから、プロポーションを正しく伝えるという利点もある。

 工房の木工仕事は手作業の世界だが、設計段階では多少のハイテクも使う。そんな使い分けも、良いバランスかも知れない。

 



























ーーー12/14ーーー チーズの思い出


 特に好物というわけではないが、よくチーズを食べる。家内もよく料理に使う。先日の展示会のパーティーで余り、持ち帰ったモッツアレラチーズも、グラタンやキッシュに使われた。普段も、カマンベールやブリーといったチーズを、酒のつまみに食べる。日本の(特にこの地の)家庭としては、チーズの消費量が多い方ではないかと思う。

 ところが、西欧人のチーズ好きは、こんなものではない。そういうことを目の当たりにした経験がある。

 会社勤めをしていた頃、出張でウイーンに滞在したことがあった。宿はザッハホテル。オペラ座の向かいにある、超有名なホテルである。世界的に名の知られたケーキ「ザッハ・トルテ」はこのホテルに起源がある。会社の事務員が、そんな高級ホテルを予約したのは、おそらく景気が良かった時代の、なにかの間違いだったろう。

 ある朝、ホテルのレストランで食事をとった。メニューの中に「チーズの盛り合わせ」というのがあった。深く考えずにそれを頼んだのだが、運ばれてきたものを見てギョッとした。大皿にぎっしりと、様々なチーズの切り身が並んでいたのである。日本人の感覚からすれば、常識外れな量である。最低五人分くらいはある。しかし、注文を取ったウエイターが、何も忠告をしなかったところを見ると、一人でこれを頼んで平らげる客がいるのだろう。

 さて、取り掛かったものの、すぐに行き詰った。朝っぱらから、チーズばかりそんなに食べれるものではない。それでも、注文した責任上、必死の思いで口に運ぶ。もう冷や汗ものだった。誰かに見られているようで、余計に焦る。そのうち口の中が乾いて、飲み下すことが困難になった。結局、半分以上を残して、逃げるようにして席を離れた。

 ところが、である。私が孤軍奮闘している最中、隣の席に着いた紳士二人が、私と同じものを頼んだ。彼らは、運ばれてきたものを、嬉しそうに食べ始めた。私と違って、余裕が感じられた。あちこち指差しながら、銘柄を言い当てたり、味を比べたりして、楽しんでいる様子だった。あの調子なら、おそらくペロッと食べてしまったろう。私は、外国人の嗜好の違いを、まざまざと見せつけられた思いがした。

 さて、ついでに同じホテルのレストランで目撃したことをもう一つ。

 朝食を頼むと丸パンが出てくるのだが、フランスパンのように表面が固い。球形の殻のような感じで、指で押しても凹まない。そのままかぶりつくこともできないので、無理につぶして引きちぎると、皮がバラバラに砕けてテーブルの上に散乱する。そんなふうに散らかして、私は気まずかった。

 隣の席に、太った中年の紳士が座った。わたしはこっそりと、パンを扱うお手並みを拝見した。

 その男は、パンの腹にナイフを刺し、ぐるっと一周切り回して、上下二つに分離した。そして、パンの中身をつまみ出した。ああ、中の柔らかい部分だけを食べるのか、と思いきや、取り出した中身は皿の脇に置き、皮をちぎって、バターを塗って食べだした。この一連の作業の中で、パン屑はほとんど出ない。見事な手際だった。

 私は、そのような方法でパンを処理するのを初めて見て驚いたが、皮だけ食べて中身を残すという事にも、少なからず驚いた。



ーーー12/21−−− 手抜き


 こういう仕事をしていると、手抜きの誘惑にかられることがある。こういう仕事という意味は、手仕事だから自分の判断でいかようにでもなるということ。そして、自分一人でやっているから、人からとやかく言われることも無いということである。

 一口に手抜きといっても、いろいろある。まず、やらなければならない事を、面倒だから、時間が無いから、疲れたから、などという理由で省略する手抜き。これを積極的にやるケースは、まず無い。何故なら、この類の手抜きは品質の低下を招くからである。品質の低下は、見る人が見れば判るものであり、そういうモノを世の中に出すことに無頓着になると、制作家の命取りになりかねない。

 一方、悪くない手抜きもある。たとえば、これまで過剰に手を入れていた工程を簡略化するというもの。こういうものは、余計にやっていた事を省くだけだから、品質の低下にはならない。これは改善であって手抜きと呼ぶべきものでは無いかも知れないが、これまで掛けていた手間を省くというのは、やはり手を抜くという感覚ではある。

 これら、許されない手抜きと、許される手抜きの間に、どちらとも言えないようなグレーゾーンがある。その中での判断が、難しい。「手抜きをしても、結果に違いが無い」と思っても、あるいは「この程度の違いなら問題ない」とみなしても、それは自分の感覚によるものであり、絶対的な基準があるわけでは無い。

 また、制作者本人が認識しているものと、そうでないものがある。認識していない手抜きとは、他人から見れば手抜きだが、当人はそれを見過ごしているというもの。やるべきことに気が付かないだけだから、制作者の誠意が問われる事はない。しかしその場合、別の意味で制作者の資質が問われるが。

 いずれにしても、正しいものは一つであり、それに足りなくても、反対に過剰であっても、正しくはないと考えると、これはなかなか難しい問題である。

 囲碁の世界には、意図的に手を抜くという概念がある。相手が打った手に対し、応ずる必要が無いと判断して、別の方面へ切り替えることを言う。手を抜くことで、守りの後手から攻めの先手へ立場が入れ替わる。だから、手を抜いて良いかどうかの判断は、重要である。打つべきところで手を抜くと、攻め込まれてダメージを食らう。逆に、手を抜いても良いところで相手に構うと、主導権を握るチャンスを逃すことになる。

 素人の絵画教室などで、指導者からよく言われる言葉は、「描き過ぎ」だそうである。ある時点で止めておけば良い絵になったのに、その後に手を入れ過ぎたためにダメな絵になってしまうことを指すらしい。制作者の気持ちとしては、十分に描きたかったのだが、それが却って見る者にくどい印象を与えるということ。当人の思いと、他者が感じる事には、往々にしてギャップがつきまとうのである。

 ところで、仕事を離れた日常生活でも、同じようなことが言えそうだ。相手に対する言葉が、ひと言足りなかったために気持ちが通じない事がある。逆に、言わなくても良い事まで言ってしまって、気まずい関係に陥る事もある。人が見ていなければ、ルールを無視したことを平気でやる者もいるし、誰もいないところでゴミを拾う者もいる。「バレなければOK」と考える人もいるし、「それでは自分の気持ちが済まない」と思う人もいる。

 知り合いの米国人木工家は、若いころ松本地方の有名な木工所で修業をした。親方は仕事に厳しい人で、よく殴られたりしたらしい。その後、独立して工房を構え、現在に至っている。その人がある時雑誌の取材に応えてこう言っていた「仕事をやっていて、疲れたりすると、手を抜きたくなる時もありますが、親方が後ろから見ているような気がして、思い直します」。

 我々の日常生活で、後ろから見ているのは誰なのか。




ーーー12/28−−− 一年を振り返る


 今年の出来事を振り返ると、まず一番に長女の結婚が挙げられる。他のご家庭で、お子様が結婚されたという話を聞くたびに、我が家にはいつになったらそのような慶事が訪れるのだろうと感じていた。それが、いわばアッと言う間に現実になった。自分が結婚した時もそうだったが、過去に経験したことのない、重大な出来事でも、終わってみればあっけない。人の営みというものは、そういうものなのだろう。ともあれ、とても嬉しい出来事だった。

 お相手は四国の人。遠くの地のご家族と身内になるというのも、楽しみなことだ。私が住んでいる地域では、近場の相手と結婚するケースが多いようで、「娘さんが遠くへ行ってしまったら寂しいでしょう」などと慰めてくれる。しかし私は、遠方の血が混じる方が好ましいと、常々考えてきた。「気に入った相手なら、地球の裏側へ嫁いでも構わない」などと、冗談交じりで言い返す。

 次に印象に残ったのは、夏の登山。テントを担いで、四泊五日の北アルプス縦走。この歳で、このような大きい登山ができるとは、正直に言って数年前には想像できなかった。実は、1999年の夏に、家族登山をやったことがある。爺ヶ岳を日帰りで登った。北アルプスの中では、最もラクに登れる山の一つである。その時、ひどく疲れて自らの体力に失望した。もはや自分は以前のようなヘビーな登山はできないと思った。それから10年。地道な体力トレーニングを積み重ねて、ここまで回復できたのは、大きな喜びだった。今後に向けて明るい希望となった。

 仕事の面では、とにかく製作に追われた一年だった。その割には利益が上がらなかったが、仕事があるだけでも、品物を作れるだけでも、幸せと考えるべきだろう。

 趣味の楽器演奏では、尺八(プラスチック製)をいじるようになった。尺八は音を出すのが難しい。ケーナと同じ原理ではあるが、格段に難しく、いい加減なことでは音が出ない。その訓練をしているうちに、元からやっていたケーナも上達した。異種分野の交流というのは、有効なものだと感じた次第。

 来年がどんな年になるか、予想もできないが、健康で楽しく暮らし、生活していけるだけの仕事に恵まれれば有り難いと思う。















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